和太鼓の公演を見た

「嵐山太鼓まつり2007」のチケットを親父が二枚買ったというので、地元の和太鼓の団体の発表会のようなものに一緒に行った。主催は嵐山太鼓まつり2007実行委員会、後援が嵐山町嵐山町(らんざんまち)ホームページ嵐山町教育委員会嵐山町商工会・嵐山町文化団体連合会。場所は町でイベントや上演物を行う際にお決まりのhttp://www.nwec.jp/index.phpの講堂、いわゆる多目的ホール
父が和太鼓が好きで太鼓の会に入っていたこともあり、私自身は子どもの頃に自分も入ろうかと考えたこともあるが、和太鼓の魅力のようなものは感じられるが、今それほど和太鼓が好き、というわけではない。そんな私はチケットが無駄になるからという理由でそれほど乗り気でもないままに見に行った。
始まってみると、純粋な太鼓団体の公演という感じではなく、なんと来賓の挨拶から始まるという「町の行事」といった感のある始まりで、それほど乗り気でなかった状態が開始当初においてひどく落ちてしまった。そこで私は「なんだこれは、音楽発表会ではなしに、○○式ではないか!」と一人ぼやくことになった。ついでに言っておくが、キャパ600席の会場に来場している客は、察するところ太鼓会メンバーに何らかの関わりのある人や、爺婆で、私のと同世代ほどの人間はまずいないといってよい感じであった。とにかく、町長や議員などのお偉いさんのお言葉で舞台が始まった。
そして上演中。照明が気になって仕方なくなった。もともと「多目的ホールである」ということがかなりの原因であろうが、多目的ホールにしてもひどい。基本的には上からしか顔に光が当たっていないという状況。舞台上面からのボーダーライトとホリゾント幕、というなんとも哀れな照明。もうとにかく顔が暗かった。舞台機構を理解している人が関わっていないんじゃないかと思ってしまうほどだった。いろんなところに見えるダメな部分が、こういった多目的ホールで行うモノの問題点のように思える。というか日本の舞台上演界全体の問題だと思う。
あと公演自体に思ったのは、全体のプロデュースがひどいな、ということ。「嵐山太鼓まつり2007」では、5団体が演奏したのだが、全体としての共通性というか、モチーフというかイメージというか、そういったものが一貫していない感じがした。団体ごとに作った何作品をつなげたって感じ。全体の監督不在の映画みたいな。大長編のドラえもんなのに、通常回を五回連続で流しただけ、みたいな。そもそも「嵐山太鼓まつり2007」出場5団体は、基本的には同一の個人が指導しているような状況にあるらしい。例えるなら5つの企業の社長が全部同じ人みたいな感じなのかな?そういう面では(すべてが太鼓であるためも含めて)音楽的共通性のようなものはあったかに見えたが、逆に全体が指導者という点で共通しすぎて変化がなかったから中途半端に「団体全体」の共通点はあるために「公演全体」の共有感が感じられなかったのかもしれない。あと、子どもが多いことや太鼓熱心な客だけではないと予想されることから飽きると思ってか、途中で全然関係ないクラウン(道化師)の方を登場させてパフォーマンスしたのだが、太鼓の発表会としてはちょっとおかしいんじゃねえのか、と思った。来賓の挨拶の時点でおかしいというか違和感は感じたが。
正直なところ「ちょっと私に来年監修させてくださいよ」みたいなことを残念ながら思ってしまった。団体や公演自体がローカルゆえに家社会っぽさそうだとか、他にもまだ思うところあったけど、片田舎の多目的ホールでの伝統音楽(っぽいもの)ではこれが現実であるんだと実感した。あと、太鼓の演奏は聴覚のみでなく、視覚でとらえる部分が非常に大きいことと、振動による感覚も実感したわけだ。
最後に、見ていてこれはどうかなと考え出したアイデアがあるので書く。バチを光るようにさせて(光源を仕込むか、蛍光染料等での染色、塗装など)舞台照明カット暗中演奏すれば残像がきれいに残って(ライトセーバーみたいで)かっこいいと思った。